福島原発事故

福島一号原発の事故があってたまたまブログで知った「平山憲夫」なるひとの
遺稿、告発文「原発はどんなものか知ってほしい」を読んで、
ブロトモのgeotechさんに紹介した。
山猫軒は建設業界に身を置くひとりとして、平山さんの原発建設工事が杜撰であった、
と言う指摘には100%納得するわけにはいかない。
が、しかし、50%ぐらいは分かる。
ただ、二十年以上前から大手ゼネコンに於いては建設工事の作業手順が細かく、
マニュアル化されて、熟連技術者をできるだけ省いて、
コスト削減するという方向へ進んでいった。
腕に覚えのある職人達はプライドを傷つけられて、
親しくしていた鍛冶職人が自殺をしたのを目の当たりにしている。
原発建設ではなかったが、火力発電所の工事だった。
土木、建築工事の世界で、昔はゼネコンの若い監督達は古手の職人に、
怒鳴り上げられながら、彼らから仕事を教えられて成長していったものである。
それが、ゼネコンに大学出の社員が主流になるにつれて、
作業の標準化というコスト重視、効率化が取り入れられていく。

そうした中で、建築構造物の安全性はある一定の標準的な危険値(想定という)
をもとにして考えられていくことになったと思うのだ。
自殺した友人の鍛冶職人は「最早、日本で職人は必要とされなくなった。
姿形が職人風であれば素人でもいいというのだから。」
と言い残して死んでいった。
彼の技術は<想定>を遥かに超えたところに及んでいたのである。

この現象は土木、建築だけではなく機械、プラント、設備その他の分野でも
同じであったと思われる。
そして、<トイレのないマンション>と揶揄される原発は
それらの手で作られているのだ。
<トイレのないマンション>とは使用済み核燃料の始末をする技術が
確立されていないまま、ドラム缶に詰め込んで溜め込み続けていることを
いっている。

この機会に我々は原発の無い社会を考えてみるべきではないのか。
原発に変わる電力はないというが、
街中に立ち並ぶ自動販売機を止めることからでもスタートすればいい。
かつて、不肖山猫軒は環境保護の市民運動に参加していたころ、
(その頃は原発反対ではなかった)集会で言ったことがある。
本当に原発は反対と言うのであれば、まず、自ら電気の消費を控えるべきだ。
反対デモしながら自販機で缶ジュースなどを買うなんてもってのほかで、
それ相応の不便な生活をする覚悟を持つ必要がある。と。

今日、福島原発で流出していた高濃度の放射性物質を含む水が止まった、
と報じられているが、
片方でジャンジャン水を流し込み冷やし続けているかのだから、
また、その汚染された行き場のない水がどこかに出てくると心配するのは、
素人の取り越し苦労だろうか。

「平山憲夫」さんが原発反対であったとか、あるいは、その集会で講演したとか、
また、誰かがその文章に筆を入れたとかいって、否定してはならない。
少なくても我々が知らない原発の一部を知ることが出来たのである。
もし、原発擁護するのであれば、福島原発事故現場に臨んで、
万事ぬかりなく事故の収拾を図ってからにしてほしい。

この福島原発事故で避難を余儀なくされて故郷を去った人々、
汚染された野菜を前に途方に暮れる農家の人たち、
もう田植えの季節だというのにその準備を止められている米農家、
汚染された水を流し込まれた海で生計を立てる漁師、
これらの人たちがどうしてこの人災から身を守れると言うのだろう。
自ら防御することはできないのである。
津波に対しては高台に住まいを、地震にはそれなりに堅固な建屋を作ればいい。
しかし、放射能となると、これは僕の想像の外にある。

こう、書き進んでいたら気分が滅入ってきたので、
淺草公園に桜を見に行くことにした。
春の隅田川を見たら少しは心が洗われるだろうか?

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[ 2011/04/06 15:04 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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