敗戦記念日と祈り

また、8月15日、我が国の敗戦記念日がやってくる。
敗れた戦い、それも完膚無きまでに叩きのめされた負け戦であった。
それを、政府もマスコミも、敗れたとは言わずに「終わった」というこの姑息さ。
怒りよりも憐れみを覚える。
信用ならないのである。
政府もマスコミも本質的な先の大戦の総括をしないで、
臭いものに蓋を、失敗は無かったことに、見て見ぬふりして、
今日までこの国は長らえてきた。
同時に内部から精神の腐敗は進んでいたのだと思う。

おびだたしい死者の屍の上に築かれた経済の繁栄は、
そもそも、最初からいかがわしいものだったのではないか?
そう思いながら、先日二つの<祈り>の話をTVで観た。

クミコの<祈り>
吉田賢治の<祈り>である。
クミコはシャンソン歌手で原爆の歌を唄っている。
吉田賢治は画家で敗戦を霞ヶ浦航空隊で迎えた。
多くの戦友、友人、知人を亡くし「死と生」を見つめ続けた男である。

この二人に共通しているのは「戦争」と「死者」である。
そして、クミコの歌も吉田の絵も憎しみや怒りを越えた生に対する
静かなる<祈り>がある。
仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、などの宗派を越えて、
私たちは祈ることしかない。

まさしくその戦禍を潜りぬけ今日の日本の繁栄(見せかけだとはしても)
の担い手だったはずの高齢者達の生きている確認ができないという。
それも、昨日今日行方不明になったのではなく、
古いところでは20年、30年前からと聞くと、
開いた口が塞がらないのだ。
その不明の人たちの数もどんどん増えてくる。
100歳以上ではなく90歳以上ならもっといるではないだろうか。
行政の怠慢、社会構造の変化とかと、識者(これも信用ならないが)
はもっともらしく解説する。

この現象は簡単に言えば、
「社会、国家に貢献できなくなった人間は員数にはいらない。」
稼げない人間はどうでもよろしいのだ。
働いて収入を得ている人間に対しては過酷なまでに、
税の徴収をするのをみれば理解できるだろう。
あの熱意を持って年寄りの面倒をみていたら、
すでに20年前に死んでいた、とか、何処に行ったか分からぬ、
等と言うことはあり得ない。

もしかしたら、この国はもうどうにもならない方向に、
進んでいるのだろうか。
最早僕たちに残されているのは<祈り>だけなのかもしれない。
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[ 2010/08/10 16:58 ] 未分類 | TB(0) | CM(1)

やはり姑息だ......

昔から、「終戦」って言葉変だな....と思ってました。
どう考えてもあの戦争は「敗戦」ですよね。
「敗戦記念日」で、私は良いと思うんですよ。変なリーダーが指揮を執ると酷い目に遭うって言う教訓で。どうして『終』なんて使ったんでしょうね?社会構造の変化?馬鹿いってんじゃないよ、って言いたくなりますよ。どう考えても今の日本いびつですよね。やっぱ、マスコミは馬鹿。
[ 2010/08/10 20:55 ] [ 編集 ]

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